演奏・音質ともムラヴィンスキー&レニングラード・フィルのベストの音源が揃っているモスクワでのステレオ・ライヴSACDが復活しました。SACDの大容量を活かして、CD7枚分の音源がSACD2枚に収録されています。しかもCDよりも切れ味が鋭く、混濁感の少ない音質となっています。スクリベンダム・レーベルではCDとSACDをリリースする際に、ロンドンのアビーロードスタジオにリマスターを依頼。数々のEMI音源の名復刻で知られるイアン・ジョーンズによる丁寧なリマスターにより、これらの歴史的名演が鮮烈なサウンドで蘇っています。
1965年の音源はLP時代から日本でもよく聴かれていたもので、とくにグリンカの『ルスランとリュドミラ』序曲の凄絶な演奏は、彼らの代名詞ともなったものです。他にも、宇野功芳氏が「谷間に咲く白百合」と評したモーツァルトの交響曲第39番、冒頭から戦慄の緊張感が支配するショスタコーヴィチの交響曲第6番とバルトークの「弦・チェレ」、そして厳しく彫琢されながらもスケール雄大なシベリウスの交響曲第7番と、凄い名演が揃っています。このSACDは、過去のLPやCDを上回るベストの音質を誇り、まさに永久保存に相応しいものと言えるでしょう。
1972年の音源はCD時代になってから市販されたものですが、こちらも過去最高の音質となっています。ムラヴィンスキーが得意とするベートーヴェンの交響曲第4番は、伝説的な日本公演と甲乙つけがたい名演、名録音。交響曲第5番は同コンビのベスト演奏で、圧倒的迫力の終楽章は、すべての同曲CD中でも特筆すべきものとなっています。チャイコフスキーの『フランチェスカ・ダ・リミニ』も同曲CD中、孤高の高みに位置する超名演。またワーグナーの『タンホイザー』~「ヴェヌスベルクの音楽」の柔らかな弦による官能美、絶妙な弱音表現には、このコンビの表現力の幅広さを改めて実感させられます。
500部限定再プレスですので、お求めはお早めに。
(タワーレコード)
『ムラヴィンスキー・イン・モスクワ~1965&72年モスクワ音楽院大ホール・ライヴ~』
【収録内容】
[SACD1]
・チャイコフスキー:幻想序曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』 OP.32
1972年1月27日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・チャイコフスキー:交響曲第5番 OP.54
1972年1月30日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・ワーグナー:『神々のたそがれ』~「ジークフリートの葬送行進曲」
1972年1月26日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・ワーグナー:『ワルキューレ』~「ワルキューレの騎行」
1972年1月26日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・ワーグナー:『タンホイザー』~「ヴェヌスベルクの音楽」
1972年1月27日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・ブラームス:交響曲第3番 OP.90
1972年1月27日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・ショスタコーヴィチ:交響曲第6番 OP.54
1972年1月27日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・ベートーヴェン:交響曲第4番 OP.60
1972年1月29日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・ベートーヴェン:交響曲第5番 OP.67『運命』
1972年1月29日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・ワーグナー:『神々のたそがれ』~「ジークフリートのラインへの旅」
1972年1月26日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
[SACD2]
グリンカ:『ルスランとリュドミュラ』序曲
1965年2月26日 エンジニア:ガクリン
・ムソルグスキー:モスクワ河の夜明け
1965年2月21日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・リャードフ:バーバ・ヤガー
1965年2月21日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・ショスタコーヴィチ:交響曲第6番
1965年2月21日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・グラズノフ:『ライモンダ』第三幕への前奏曲
1965年2月21日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・ムソルグスキー:モスクワ河の夜明け
1965年2月21日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・リャードフ:バーバ・ヤガー
1965年2月26日 エンジニア:ガクリン
・ワーグナー:『ローエングリン』より第三幕への前奏曲
1965年2月
・ワーグナー:『ワルキューレ』よりワルキューレの騎行
1965年2月
・モーツァルト:『フィガロの結婚』序曲
1965年2月23日 エンジニア:グロスマン
・モーツァルト:交響曲第39番
1965年2月23日 エンジニア:グロスマン
・シベリウス:トゥオネラの白鳥
1965年2月23日 エンジニア:グロスマン
・シベリウス:交響曲第7番
1965年2月23日 エンジニア:グロスマン
・ワーグナー:『ローエングリン』より第三幕への前奏曲
1965年2月23日 エンジニア:グロスマン
・ワーグナー:『ワルキューレ』よりワルキューレの騎行
1965年2月23日 エンジニア:グロスマン
・ヒンデミット:交響曲『世界の調和』
1965年2月26日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・ストラヴィンスキー:バレエ音楽『ミューズを司るアポロ』
1965年2月26日 エンジニア:ヴェプリンツェフ
・ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
1965年2月28日 エンジニア:ガクリン
・バルトーク:弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽
1965年2月28日 エンジニア:ガクリン
・オネゲル:交響曲第3番『典礼風』
1965年2月28日 エンジニア:ガクリン
【演奏】
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮
レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
CD
CD-BOXセット発売の時の許光俊氏のコメント転載
許光俊氏が「オレのクラシック(青弓社)」より
(1965年セット)
今度発売されるムラヴィンスキー・セットのサンプルを聴いてひっくり返らんばかりに驚いた。いまのところ私が聴いたのは1965年の演奏だけだが、これはたいへんなことになったと思った。
いずれも、かねてから知られていたお得意のレパートリーである。それどころか、既出の演奏の再発売も多数含まれている。しかし、音質が信じられないほどいいのだ。とても同じ演奏とは思えないほどなのだ。細部が手に取るようにわかる。
客席のノイズや雰囲気もクリア。まるで伝説のレニングラード・フィルをステージ間近で聴いているかのようだ。音質を向上させての再発売は昨今引きも切らないが、これほどまでに目覚ましい差違を示した例も珍しいに違いない。美女の身を隠していたヴェールがすべて剥ぎ取られたかのようだと言っても過言ではない。
ソ連の録音水準は本来こんなに高かったのである。黙って聴かされたら、誰ひとりとして1960年代のソ連録音とは当てられないはずだ。とんでもない原テープが眠っていたものである。
鍛えに鍛えたオーケストラの力業は、世界一と言い切ってもよい。カラヤンやショルティが技術を大衆を籠絡するために用いたのとは対照的に、ムラヴィンスキーは大胆にして繊細の極致をゆく。そのスリルには胸の鼓動を抑えかね、結局、1日で4枚をぶっ続けに聴いてしまうはめになった。
リャードフの「バーバ・ヤガー」のカミソリのような切れ味。グロテスク。「ライモンダ」冒頭の激烈な一撃。火柱のような高揚。「ローエングリン」における火花の炸裂。いずれも最初の数秒で打ちのめされる。モーツァルト「交響曲第39番」メヌエット楽章の威厳。「トゥオネラの白鳥」の氷のような弦楽器。「弦打楽器とチェレスタのための音楽」の立体感。激流のような音のぶつかりあい。「典礼風」の酷薄と残虐。「世界の調和」の電撃的な音響世界。終結の圧倒的エクスタシー。いかなる感傷も捨て去って物理的な音の運動に賭けたショスタコーヴィチ。
これらを聴けば、昔ムラヴィンスキーの生を聴いた人たちが、イチコロでやられてしまったわけがよくわかる。そして、やられなかった人たちが敬遠して遠ざかってしまった訳がよくわかる。かくも強烈な音楽には、無条件に征服されてしまうか、拒絶して遠ざかるか、ふたつにひとつしか対応の方法が残されていないのではないか。
相変わらずクズのようなCDが無限に発売されているが、このセットこそ陳腐と凡庸の荒れ野に燦然と咲き誇った花でなくて何だろう。
(1972年セット)
今度のアルバムで一番気に入ったのは、ワーグナー「タンホイザー」から抜いてきたヴェーヌスベルクの音楽。これはすごいぞ。青年・中年大喜びの官能的ネットリ演奏ではないが、思いの外弦楽器が柔らかい響きを出している。レニングラード・フィルはこんなふわふわした音も出せたのだ。まるでドビュッシーみたいな絶妙の弱音は陶酔的。かと思いきや、切れ味抜群の、渦巻く音響の乱舞も登場する。硬軟両極端をきわめた音楽に恍惚とする13分だ。これは危ない。こんなものを知ったら、聴くものがなくなっちゃう。
「ジークフリートの葬送行進曲」ではまさに心臓をえぐるような低弦が聴けるし、ソヴィエトならではのワイルドなトランペットも脳天をつんざく。「ラインへの旅」で次々に音が沸騰していくような、あるいはグイグイ力ずくで迫ってくるような様子も壮観だ。とはいえ感情的には全然ウェットじゃないのはいつも通りだ。
ベートーヴェンの交響曲第4番は、アルトゥスから出ている日本ライヴだってもちろん悪くないけれど、私はこちらのほうが好きだ。もっとシャープで、張りつめている。
それより驚きは第5番のフィナーレ。音がぐんとよくなって、印象が変わった。音楽が火の玉になって飛んでくる。ものすごい力強さで疾駆する。他の誰とも違う演奏だ。ソナタ形式の論理性ではなくて、音の塊自体で圧倒するような演奏。この温度の高さは異常。
チャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ」はムラヴィンスキーがすごすぎて、他の演奏家で聴く気がしない曲だ。さすがのスヴェトラーノフ先生も、この曲では足下にも及ばない。金管楽器も打楽器も、もはやサディスティックとまで言いたくなる衝撃力。それとともに得体の知れぬ不気味さが怖い。
でもこのCDのあとで、腑抜けた現代の演奏を聴いていられるとしたら、それはあまりにも鈍感というものではなかろうか。鈍感の方が幸福だとは思うけどさ。